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十禅師

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十禅師(じゅうぜんじ)

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十禅師(じゅうぜんじ)、十禅師神十禅師権現比叡山の東麓に鎮座する天台宗比叡山延暦寺鎮守神、権現であり、日吉社の神、日吉山王七社権現の一つであった[1][2][3][4]。仏でもあり神でもある、あるいは仏でも神でもない、概念も非常に曖昧な日本の神仏群の尊格のひとつ[5]。童子形または若僧形の神とされた[3][6]

概要

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十禅師は、日吉山王七社権現の一つである[3]。中世の近江日吉社(山王)では、「山王三聖」と尊称される大宮・二宮・聖真子を中核とする七社を上七社と呼ぶ山王七社の体制が11世紀以降の百年ほどの間で成立し、これに中七社・下七社と呼ばれる摂社群を加えた体系が形成された[7][6]。七社が揃ったのは十二世紀初頭と言われる[4]。十禅師社は上七社の、日吉社の地主神である二宮を中核とする東本宮グループに属する[6]。「山王神」は、個別の神を呼ぶ場合は七社の大宮を指すが、広くは概ね七社を指す[4]

十禅師は、日本神話において最初に出現した国常立尊(日本神話の根源的神)から数えて十代目の神で天照大神の孫(天孫)の瓊瓊杵尊[注釈 1]を権現と見ていう称であり、また十禅師社の祭神を、藤原氏の祖神で奈良の春日大社天児屋根神平安京賀茂神荒人神とする説もあり、資料によって多岐に渡る[6][9]。二宮(小比叡)が国常立尊と、八王子が天照大神の八人の王子と、十禅師が瓊瓊杵尊と一体化・同一視されることで、日吉の神は天地開闢神話と結びつけられ、伊勢神道とも結びついた[10]

頂上に巨大な磐座があり山麓に古墳も点在する神体山八王子山を背にする点などから、その信仰は地主神の系列でも特に古い起源を持つもので、日吉社の原初的信仰の系譜を引くと指摘されている[6]。『扶桑明月集』(大江匡房の著述とされる)には、十禅師は「桓武天皇延暦二年天降」とあるが、菅原信海はこれを鵜吞みにすることはできないと述べている[8]。十禅師権現信仰は平安末期から盛んになり、天台宗の僧慈円が元仁元年(1224年)に創始した新礼拝講によって確立され隆盛した[11]。叡山僧たちは山王神を仏法擁護の神と見なし、「我等が仏法を盛んにすることで護法神山王は国家鎮護の働きを増す」と説いており、十禅師を含む山王神は、王法を支える仏法という観念の要であった[4]

日吉社は霊験あらたかな神々として貴賤広く信仰され、十禅師の霊威は驚くものであったと様々に記されている[6][12]。中世の十禅師は、「巫覡憑依し僧俗に対して託宣を下す荒々しいシャーマニックな霊山の童子神」として知られていた[6]。十禅師は夢想・憑依によって託宣を下す神であり、慈円は聖徳太子信仰に篤く、晩年は夢想による十禅師の託宣を深く恃みにしていた[13]。十禅師の巫覡への憑依・神がかりは激しい神威の発露であり、日吉・比叡山では「クルイ(狂い)」と言われていた[14]

十禅師は、姿態としては童子形または若僧形をとり、若々しい男性、あるいは少年として描かれた[2][6]。平安末期には、南都北嶺(奈良の諸宗諸寺と延暦寺)に入寺した摂関家の子弟などを「禅師君」と呼んでおり、宮井義雄によると、「十禅師」という呼称も御子神を表したもののようである[15]良遍の『神代巻私見聞』や光宗の『渓嵐拾葉集』では、瓊瓊杵尊は国常立尊より十代の禅(ゆず)りを受けた(国常立尊より十代目の神)が故に「十禅師」と呼ばれるとされている[15][注釈 2]

中世日本の宗教の研究者山本ひろ子は、日本生え抜きの神でも経典中の仏菩薩でもない、出図も来歴も不確かな謎めいた異国由来の日本の霊格たちを「異神」と呼んで研究しており、著作『異神』(1998年)において、十禅師は「宇賀神荒神を一身の内にあわせもつ神」であると述べている[16]。宗教学者のベルナール・フォールは十禅師の様々な側面を調査し、人の胎内での発生・生育に関わる胞衣神(胞衣とは胎盤のこと)、蛇神英語版的存在(宇賀神など)と関連した地上神としてのアイデンティティ、星辰崇拝英語版における一連の神のひとり、荒神(こうじん)、男性同性愛のセクシュアリティを持つ神であること(寺の稚児との結びつきによる)等の側面を示している[2]

本地

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十禅師の本地仏は諸説あるが、地蔵菩薩とする説が最も有力である[17]和歌森太郎は「十禅師は童子といわれ、この童子には沙弥のことをいうような特殊な用例もあるけれども、一般的には子供のことである。すなわち子供の神について、その本地が地蔵に求められる傾きがあったことがしられる」と述べている[18]。十禅師本地地蔵説から、「天」にあっては「虚空蔵」、「地」にあっては「地蔵」という「天地経緯の神明」説が口伝として伝えられた[19]

他、弥勒菩薩如意輪観音菩薩千手千眼観世音菩薩など諸説ある[9][15]

同体

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荒神安鎮の神であり荒神

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十禅師は、乾(西北)の方向にあり、東南の荒神を監視し安鎮する神であり、すなわち宇賀神とされた[20][21]

中世比叡山で秘事・口伝の記録を担った記家の正嫡で、天台宗の僧恵尋(えじん、?-1289年)の復興運動に協賛した鎌倉後期の義源は、十禅師は善人には恵みを垂れるが、悪人には麁乱神(荒神、障擬神、祟り神)と化現し災難を下すという口伝を残しており[14]、十禅師は荒神であるともされた[20][21]。利生(恵み)と障礙(災難、罰)という十禅師(宇賀神)の両価的機能が、「荒神安鎮」の霊格と「荒神」として対立的に形象化されている[21][22]。悪人に怒る神という面は、閻魔王との一体化にも見られる[22]

憑依によって発現する十禅師の神威は、荒神の性質と繋がっている[14]。中世の日吉社の中で特に十禅師は、「『クルイ』と呼ばれた神顕現に最も強く彩られたシャーマニックナなトポス」であり、「現世に垂迹して賞罰権を行使する怒る神」として、憑依・託宣によって、中世日吉社における神の存在を最もリアルに体現していた[22]

中世比叡山の戒律思想への影響
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中世比叡山の律僧たちは、神祇信仰を戒律思想に大きく取り込んでいるが、これは善人に恵みを、悪人に罰を与えるという神祇の賞罰機能を、悪を遮り善を持するという戒律の機能そのものと考えたためである[23]

鎌倉後期の比叡山は、僧兵の増長で伝統的秩序が崩壊しつつあったとされ、復興運動(円頓戒)を担い「戒家」を名乗った恵尋は、荒々しいシャーマニックな十禅師に円頓戒の本質(戒体)を見出しており、中世の比叡山の戒学書には神霊憑依の信仰の現場の影響が見られる[14][24]。曽根原理によると、戒家は山王神という「原理」によって現象世界は生成・運営されると考え、これが戒家による衆生利益の活動理念となっていた[24]。僧団の入門儀式である「受戒」は、「戒の本質であり悪を止め、善を修する力の根源」であり戒律の生命とも言える「戒体」を、入門者が自己の身体内に獲得する(戒体発得)という、極めて重要な意味を持つものであった[24]。受戒は仏教儀礼の根幹をなすとも言え、戒家は日吉社の中でも十禅師を特に重視しており、戒体は深く十禅師と関連付けられていた[24]。戒家は、十禅師という神名は円頓戒の本質を示すものと解釈している[25]。舩田淳一は、十禅師を重視した戒家の信仰の背景として、衆生を含む一切万象(現象世界)の生成原理を真如仏性)とみる本覚思想では、真如は絶対的な善であるため、悪は相対的な仮象となり悪の問題はアポリアとならざるを得ず、悪が直視されず軽んじられるという難点があったことを指摘している[22][26]

宇賀神・胞衣神

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山本ひろ子によると、十禅師は宇賀神とされ、この説では宇賀神は胞衣神とみなされ、衆生の受胎から命の終焉までを庇護下に置く胞衣福寿神と言われた[27][19]。この説は胞衣神を荒神とする信仰が介在して生じたものと考えられ、荒神の愛護の尊としての側面、庇護・生育の力に注目したものとなっている[27][注釈 3]

山本ひろ子は、日吉山王の神々の中で十禅師が宇賀神と習合したのは、宇賀神が「宇」が「天」で虚空蔵、「賀」が「地」で地蔵の徳が配され、「天地相寄テ徳ヲ顕ス」「福徳ノ尊」とされ、その働きが重なり合ったためだろうと述べている[20]

閻魔王

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平安末期には、地獄の教説の伝播と相まって、地蔵菩薩が冥途より地獄行きの衆生を救うという地蔵信仰が広まった[15][注釈 4]。地蔵菩薩は地獄の閻魔王にも垂迹するといわれるため、十禅師と閻魔王は共に地蔵菩薩の垂迹として同体関係にある[17]。中世に広まった地蔵本地説をベースに閻魔王を取り込んだ十禅師信仰は、鎌倉後期の恵尋にまで遡ることができる[29]。閻魔王と一体化した十禅師は、仏法の価値基準に従って、衆生の造悪に怒る神である[22]。舩田淳一は、本覚思想における悪の問題を補正するために、十禅師の別体として閻魔王が必要とされたと分析している[26]

聖徳太子

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十禅師の図像のうち、特に童子形は聖徳太子の童子形に似ており、そのため同体視された[6][30]

北斗七星

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山王神道では、山王七社が北斗七星に比擬され、七社と七星は同体であるという山王・北斗同体説が唱えられ、これが山王七社体制の教学的裏付けとなっていた[31]。これは北斗七星信仰(属星信仰)を山王七社に付会したものであり、陰陽道や仏教の宿曜道では、人は生まれた年によって北斗七星のうちの一つの星が本命星(属星)となり(ほかに元神星を定めるものもある)その人の寿命や吉凶禍福を支配するとされ、本命星・元神星を供養し祈念する儀式(修法)が行われた[31]

佐藤真人は、鎌倉時代中期の建長年間(1249年-)に山王七社に北斗同体説が充てられ山王教学が確立したと述べ、山王・北斗同体説は天台密教系の星宿法に関わって形成されたもので、中世に流行していた本命思想に基づく北斗信仰や冥府信仰に対応して、本命思想を山王信仰に組み込んだものと評している[32][33]。山王(十禅師)は衆生本命霊神とされ、延いては麁乱神、荒神、宇賀神、胞衣神(胞衣福寿神)と説かれており、佐藤真人は、これらの神はすべて本命星の変作であり、この説は「広くは北斗の本命星信仰に基づく所説」と言えると述べている[33][34]

童子神、稚児との関連

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平安時代中期には、仏菩薩の使者のなかで、童子の姿を取るものが重要視され、観音菩薩文殊菩薩、地蔵菩薩もまた、盛んに童子の姿で表現されるようになり、童子信仰が盛り上がった[35]。また、僧侶と稚児の恋愛が盛んに行われるようになった[35]

日本の天台宗の宗祖最澄が比叡山に入った際に最初に出会ったのが稚児と山王権現で、それらが天台宗にとって非常に重要な意味を持つという説「一児二山王」があり、これは稚児の神聖視から成り立つ[36][注釈 5]。天台宗では鎌倉末期になると、「一児二山王」という言葉が盛んに用いられており、1414年の奥書がある『厳神鈔』では、この「一児」とは十禅師であるとされている[38][35]

稚児は僧侶に性愛を通じて救いを与える存在であり、稚児との性的な行為は悟りに至るための宗教的な行為だと考えられていた[37][注釈 6]。『廊御子記』(1603年)では、十禅師は稚児の姿に変じて慈円の元に通い、子を成したとされている[35][13]

十禅師信仰の諸集団

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十禅師信仰には、十禅師社を拠点とし、憑依・託宣を行う「廊御子」や「寄気殿」と呼ばれる男女の巫者集団があった[13]。『廊御子記』では、十禅師が慈円の元に通いできた子が廊御子の始祖であるとされ、これは慈円の十禅師信仰に根差している[13]

十禅師は早くから山門僧侶らに厚く信仰され、中世では二宮と共に「樹下僧」と呼ばれる堂衆階層の社僧が管理し、祭祀を担っていた[1][6]。舩田淳一は、彼らは「死霊管理をも担った法師巫」と推察している[6]

東本宮圏域には、床下祭祀を行う「宮籠」らもおり、彼らは「乞食非人」と卑賤視されていた[6]。十禅師社の床下には井戸があり、舩田淳一は古の湧水点祭祀の形跡を説とめるものと述べている[6]

明治の神仏分離令

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十禅師社を含む山王七社は、明治の神仏分離令によって仏教関係のものが廃され、諸説あった祭神も固定された[9]。十禅師社の現在の社名は樹下宮で、祭神は鴨玉依姫神[注釈 7]となっており、十禅師権現ではない[9]

脚注

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注釈

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  1. ^ 菅原信海は、十禅師が瓊瓊杵尊の垂迹とされたのは、祭神の権威付けとしている[8]
  2. ^ 宮井義雄は、こうした説は、神代史上の神名を出して十禅師が御子神であることを示そうとしたものとしている[15]
  3. ^ 修験道にも同様の観念が見られ、山伏の被る「斑蓋」は、胞衣の本質である「蓋覆」の働きの象徴であった。胞衣は母の胎内で赤子の頭頂にあって「寒熱ノ毒気」から赤子を覆被し守るものであり、「身体宇宙の聖なるマトリクス」といえる[28]
  4. ^ 神代記では、盤石は黄泉へと続く黄泉平坂を塞ぐ役割を果たし、ある種の神とみなされており、地蔵信仰における地獄との関わりは石神信仰との結びつきの要素の一つである[15]
  5. ^ 仏教には異性とのセックスを禁じる不淫戒があり、日本では平安中期以降、女性のように美しく化粧をし、女性とあまり変わらない役割を与えられた少年である稚児が、僧侶の恋人を担っていた[36]。天台宗では、少年を稚児という特別な存在に変える稚児灌頂が行われており、これにより少年は観音菩薩と同体である神聖な存在である稚児になり、僧侶を含めた衆生に慈悲を与える存在だとされた[37]
  6. ^ 当時の寺院社会には僧侶同士の恋愛はみられず、小山聡子は、稚児は単なる女性の代わりではなかったのだろうと述べている[39]
  7. ^ 鴨玉依姫神賀茂氏の祖神。「タマヨリヒメ」とも呼ばれ、この名は「神霊の依りつく乙女(巫女)」という意味を持つ。(神武天皇の母ともされるタマヨリヒメとは別の存在)[40]

出典

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  1. ^ a b 山本 1998, p. 348.
  2. ^ a b c Porath 2022.
  3. ^ a b c 十禅師』 - コトバンク
  4. ^ a b c d 曽根原 1997, p. 47.
  5. ^ ベルナール・フォール. “神道国際学会理事の「ホットな近況から」”. 神道国際学会会報. 2025年3月26日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m 舩田 2007, p. 81.
  7. ^ 佐藤 1985, p. 352.
  8. ^ a b 菅原 1987, p. 11.
  9. ^ a b c d 福留 2013, p. 16.
  10. ^ 山本 2003, p. 45.
  11. ^ 菅原 1987, p. 13.
  12. ^ 菅原 1987, p. 12.
  13. ^ a b c d 舩田 2007, pp. 81–82.
  14. ^ a b c d 舩田 2007, p. 82.
  15. ^ a b c d e f 宮井 1973, p. 16.
  16. ^ 山本 1998, pp. 348–350.
  17. ^ a b 舩田 2007, p. 84.
  18. ^ 吉田 2016, pp. 68–69.
  19. ^ a b 山本 1998, pp. 3544–355.
  20. ^ a b c 山本 1998, pp. 354–355.
  21. ^ a b c 山本 1998, pp. 349–350.
  22. ^ a b c d e 舩田 2007, p. 85.
  23. ^ 舩田 2007, p. 83.
  24. ^ a b c d 舩田 2007, p. 75.
  25. ^ 舩田 2007, p. 80.
  26. ^ a b 舩田 2007, p. 88.
  27. ^ a b 山本 1998, pp. 348–352.
  28. ^ 山本 1998, pp. 352–353.
  29. ^ 舩田 2007, pp. 84–85.
  30. ^ Rage and Ravage: Gods of Medieval Japan, Volume 3” (英語). UH Press (2021年10月5日). 2023年12月14日閲覧。
  31. ^ a b 佐藤 1985, pp. 352–353.
  32. ^ 大久保良峻 他. “博士(文学)学位請求論文審査報告要旨 佐藤眞人「日吉社及び山王神道の研究」”. 早稲田大学リポジトリ. 2025年3月26日閲覧。
  33. ^ a b 佐藤 1985, p. 371.
  34. ^ 佐藤 1985, p. 375.
  35. ^ a b c d 小山 2007, p. 42.
  36. ^ a b 小山 2007, pp. 25–26.
  37. ^ a b 小山 2007, p. 26.
  38. ^ 小山 2007, p. 25.
  39. ^ 小山 2007, pp. 41–42.
  40. ^ 主祭神”. 日吉神社. 2025年3月26日閲覧。

参考文献

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関連項目

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