先日、飲み会の席で「…だって世の中、『飛行機がなぜ飛ぶか』ということすら、本当は分かっていないんですから」という声が聞こえてきた。読者の多くの方もきっと、同じ話を耳にしたことがあると思う。
「常識と思っていることは、実は単なる思いこみだ」という文脈か、「科学なんてたいしたことないじゃないか」という話か、そこまでは分からなかったが、声にはちょっと嬉しそうな響きがあった。
もちろん科学は宗教ではない(こちら)。「信じる」ことが基本姿勢の宗教に対して、科学のそれは「疑う」ことだ。リンク先の記事の通り、科学を宗教的なものと誤解しないためにも、「本当はどうなんだ?」と疑う姿勢は大切だ。その一方で、「結局、科学といっても本当は何も分かってないんだよ」という見方は、シニカルな態度にもつながっていきそうでなんとなく違和感がある。
それはさておき、高速で空を飛び、多くの人命を載せる航空機がなぜ飛ぶか、本当に分かっていないのだろうか。日本美術史専攻の文系編集者Y、航空力学の世界に挑みます。(Y)
Y:というわけでして、航空力学の論客は何人もいらっしゃいますが、ひときわお話が面白そうな松田先生に教えていただければと思って、本日、京都まで参上致しました。
松田卓也氏(以下松田):せっかく遠くまでおいでいただきましたが、「飛行機はなぜ飛ぶか」は、100年以上前から「分かって」いるのです。
Y:新幹線で来たのに1行で結論が…。それは「科学的に」分かっている、ということですか。
松田:もちろんです。飛行機が飛べるのは、翼が「揚力」を持っているからですよね。そして翼が揚力を持つのは、翼回りに空気の循環があるからです。
Y:循環。空気の渦ができるということでしょうか。
答えは、「空気の循環が翼に生まれるから」
松田:そうです。例えば進行方向を左向きとすると、翼の回りに時計回りの渦が起きる、と考えてください。
循環ができるためには、翼周りの流れが「クッタの条件」(Kutta's condition)を満たすことが必要になります。流れがクッタの条件を満たすと、適切な迎え角を与えることで翼の回りに循環が発生します。
循環によって、翼の上の方が流速が速くなり、これが翼の上下に圧力差を生む。翼の上の方が圧力が低いので、上に引き上げられる力が発生する。ベルヌーイの定理ですね。これが揚力です。

ベルヌーイの定理の前に「クッタの条件」がある
Y:「ベルヌーイの定理では揚力を説明できない」という意見をネットでよく見ますが。

1943年大阪生まれ。1961年大阪府立北野高校卒業。1970年京都大学大学院理学研究科博士課程物理第2専攻天体核物理学理学博士。1970年京都大学工学部航空工学助手。1973年同助教授。1992年神戸大学理学部地球惑星科学科教授。2006年同定年退職。現在、NPO法人あいんしゅたいん副理事長、中之島科学研究所研究員、元日本天文学会理事長、ジャパンスケプティックス会長、ハードSF研究所客員。専門:宇宙物理学、相対性理論、趣味に疑似科学批判、プレゼンテーション理論。著書に『なっとくする相対論』(講談社)『タイムトラベル…超科学読本』(PHP研究所)『物理小事典』(三省堂)『2045年問題…コンピュータが人類を越える日』(廣済堂)など。
松田:あれは間違いです。ベルヌーイの定理は、流速の違いで圧力差が生まれる部分を説明しています。しかし「なぜ翼の上下の流速が違うのか」を説明するものではない。
Y:なるほど。「流速の差がある」という前提のもとで、圧力差が生まれ揚力が発生することを説明するのがベルヌーイの定理。
松田:そう。そして流速の違いを説明するのが、最初にお話しした「循環」の発生なのです。
ところが「なぜ翼の上の方の空気の流れが速くなるか」の説明が誤っていることが非常に多く、その誤りをもって、「揚力はベルヌーイの定理では説明できない」と勘違いしている人もまた、とても多いのです。まあ、これはあとでお話ししましょう。
Y:では、循環を生む「クッタの条件」とは何でしょう?
松田:簡単に言うと、「翼の前縁で上下に分かれた空気の流れが、後縁で“滑らかに合流”する」ことです。なぜ滑らかに合流するかと言うと、「翼の後縁が尖っている」からです。ちなみに、なぜ尖っていると流れが滑らかに合流するか、については……
(松田先生、懇篤にご教示くださるも、Yの力不足でかみ砕けず)
松田:……ともかく、こう覚えておいてください。翼の後縁は尖っているので、クッタ条件が満たされて、翼上下の流れは滑らかに合流する。すると翼に迎え角がある場合は循環が発生して、揚力が発生する。
Y:翼の後ろのカタチが、飛行機が飛ぶために決定的に重要なのですね。
松田:もうすこしきちんと言いますと、「クッタ・ジューコフスキーの定理(Kutta―Joukowsky's law)」というのがあって、揚力は「(空気の)密度×(飛行機の)速度×(翼の)循環」なのです。これは、20世紀の初めに証明されました。だから、100年以上前から分かっていると申し上げたのです。
循環の大きさを決めれば、クッタ・ジューコフスキーの定理から揚力が決まるわけですよ。となれば、「なぜ飛ぶかは分かっている」といっても差し支えないでしょう。
「翼の上の方が距離が長い…」と出てきたら要注意!
Y:ううむ…。実は私もベルヌーイの定理からくる説明までは知っていたんです。上の方の空気の流れが速いから、圧力が上の方が低くなって、吸い上げられて揚力が発生する。
松田:そのとおりです。間違っていませんよ。
Y:問題は「なぜ上の方が速く流れるか」でしたよね。私が子供の頃学習マンガで読んだ説明はこんな感じです。
前端で上下に分かれた空気は、後端に同時に到着しなければならない。翼の上側の方が膨らんでいるから空気が流れる距離が長い、下側は平らだから短い。したがって、上の空気が速く流れなければならない。
松田:僕の言う「等時間通過説」、あるいは「同着説」ですね。間違いです。最も多い誤解です。
Y:この説明を読んで「そういうもんかな」と思っていたんですが、よく考えるとなぜ上下に分かれた空気が翼端に同時に到着・通過せねばならないのかが、まったく理解できない。

松田:そう、中学生でも分かる穴がある。でも、それが一般的な説明になっている。実際に実験すれば、上の方が流れが速いので早く後端に着きます。翼の形状も、上が盛り上がっている必要は必ずしもありません。だって上が膨らんだ翼の形が必須条件ならば、背面飛行ができませんよね。思考実験で簡単に分かるこういう俗説が、なぜかまかり通っています。翼の上が膨らんでいるのは、そのほうが循環が大きくなるからです。
Y:実はこの「等時間通過説」に基づく説明は、最近出た航空力学の入門本にも載っていました…。
(世間にあふれる「間違った説明」と、松田先生による突っ込み、解説はこちら。ここからの説明もより専門的になされています)
松田:流速の上下の差を生むのは翼回りの空気の循環です。循環が発生するためには後縁部がとがった形で、クッタの条件を満たすことが必要になります。翼とは翼断面や迎角をうまく作ることで、翼に空気の循環を発生させる装置、と言えます。
Y:循環とおっしゃいますが、じゃ、風洞実験をして、煙を流すなどをすれば、翼の回りに渦が巻いているのが目に見えるのでしょうか?
松田:いいえ。
Y:えっ…。
循環はある。でも目には見えない!?
松田:「循環がある」と言われたら、誰だって「ほほう、じゃあ、翼の周りに空気がぐるぐる回る流れがあるんだな」と思うわけです。
Y:思いますね。まさしくそう考えていました。
松田:でも、それは違うのです。翼の上の流れと、下の流れの速度が異なる。ということは、そこに「(左向きに進む翼を想定すると)上には右、下には左に向かう空気の流れがある」と考えられる。つまり時計回りの循環があるとすれば、上では大気速度と循環の速度が足し合い、下では引き合うので、翼上面の空気の流れは速く、下面は遅くなるのです。大気速度に対して上では加算、下では減算されて、循環があるという説明がつく。
Y:「あるとすれば」ということは、実際にはない、ということですか。
松田:「循環」は、単に数学的な表現です。
Y:数学的な表現…。「ここに循環があると“仮定する”と、大変よく説明できるのです」とおっしゃっているように聞こえるんですが。
松田:そう、そういうことですよ。
Y:だとしたら、しつこいのですが、風洞の中で何かこう、煙とか微粒子でもばらまいてやればですよ、翼の周りをぐるぐる回るところが見えたりしないんでしょうか。
松田:それは見えるわけがありません。考えてみて下さい。飛行機が前に進んでいる状態で、翼の下で逆向きの空気の流れが生じるなんてことはありえませんよね。
Y:え? あ、そうか! 実際に循環があったとしても、逆向きの流れより前から来る空気の流れの方がずっと速いから、相殺されて「下が遅くなった」だけとしか見えないか…。
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