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道の辻や、寺社や墓地の入り口などによく置かれ、延命長寿にご利益あるといわれる庚申塔や庚申塚、その中で主流となるのは、「青面金剛刻像塔」 である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
庚申塔や庚申塚の庚申は、中国の陰陽五行説に基づく「干支」という年・月・日の数え方により、干支六十組のうちの五十七番目の庚申「かのえさる」をさす。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一方、青面金剛のほうは、本来奇病を流行らす鬼神で、猿の化身ともいわれる。その容姿については、『陀羅尼集経第九』 に、 「一身四手、左辺の上手は三股叉を把り、下手は棒を把る。右辺の上手は掌に一輪を託し、下手は羂索を把る。其身は、青色にして大張口、狗牙は上出す。眼の赤きこと血の如くして三眼あり・・・・・」 とある。要約すると「三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟(三又になった矛のような法具)、棒、法輪、羂索(綱)を持ち、足下に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う」姿で現されるが、一般には、足元に邪鬼を踏みつけ、六臂(二・四・八臂の場合もある)で法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多い。頭髪の間で蛇がとぐろを巻いていたり、手や足に巻き付いている場合もある。また、どくろを首や胸に掛けた像も見られる。彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られる。この青は、釈迦の前世に関係している。
その時の釈迦は雪山童子と呼ばれ、雪山(ヒマラヤ)で修行していたところ、羅刹に身を替えた帝釈天が現われ「諸行無常 是生滅法(諸行は無常なり、これ生滅の法なり)」と唱えた。 童子がその続きを問うと、羅刹は「腹が減ったから人の肉が食べたい」と答えた。 童子がさらに「続きを聞かせてくれるなら、自分の命は惜しまない」というと、「生滅滅巳 寂滅為楽(生滅を滅し巳え、寂滅を楽と為す)」と教えた。 喜んだ童子は、後の世に残すため、木や石にこの四句を書きつけ、樹上より身を投げて羅刹に与えようとしたところ、帝釈天がそれを受け止めたという。 この話を帝釈天自身でなく、その眷族である四鬼とする説があり、これを「四句文刹鬼」と呼ぶ。鬼たちはそれぞれ、四句の一句を表わすとされ、その肌は諸行無常=青、是世滅法=赤、生滅滅巳=黒、寂滅為楽=肉色だという。すなわち、諸行無常を表わす鬼が青面金剛ということになる。 これとは別に、帝釈天の眷族とされる四夜叉も、色こそ違うが四つの色で表わされるところから、どこかで混合や同一視が起こったものと考えられる。
青面金剛には、よく雌雄一対の鶏が刻まれているが、これは申の次ぎの日、すなわち酉の日になるになるまで籠るからだといわれる。あるいは、夜を徹して、朝に鶏の声を聞くまで念仏を唱えるからだという説もある。 青面金剛と三猿 中国道教では、天帝を北斗と同一視することもあり、北斗は天・地・水の三官とともに人の功過善悪を調べ、生死禍福を司るといわれる。江戸時代になると、庚申信仰は、この北斗を本地(本地垂迹の元になるほう)とする比叡山の山王信仰と結びつき、山王権現の使者・猿=申という連想から庚申と結びついたとも考えられる やがて三猿を三尸の虫になぞらえ、「見ざる・言わざる・聞かざる」で、天帝に罪を報告させない、という意味へこじつけていったようである。 この三猿の起源については、従来伝教大師・最澄や弘法大師・空海、あるいは儒教や道教などの道徳的見地に由来するとされてきたが、近年アンコールワットの調査により、樹上で三猿らしきポーズをとる人間像が発見されたことから、中近東起源説が有力になっている。 あるいは、古代エジプトの土偶にも、耳と目を両手で押さえた二体の像と、片手で頭を、もう片手で胸を押さえた像が同時に出土していることから、エジプト起源説をとる学者もいる。
いずれにせよ、庚申信仰は室町時代に盛んとなり、「月待ち」「日待ち」などの習俗とも混淆して、次第に「庚申待ち」という念仏講的色彩の強いものとなっていく。青面金剛の頭上に日輪・月輪だ描かれるのはこれが基になっていると思われる。 庚申と道祖神 一方神道系は江戸時代になって、申=猿の関係から猿田彦大神をまつるようになる。猿田彦は、天孫降臨の折に道案内を務めたことから、道祖神と同一視されているが、これも、庚申塔と同様村の辻や境界に置かれることが多いので、両者が次第に結びついていった側面もあると考えられる。 (小学館「東京近郊・ご利益散歩ガイド」東京散歩倶楽部編著を参考・転載) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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聖徳太子ゆかりの大阪市阿倍野区にある四天王寺の南大門から南200m程の処に日本最古と云われる庚申堂がある。堂内に掲げられている由緒書によると奈良時代文武天皇の御代(697〜707)に疫病が流行し、天王寺の僧が一心に祈願したところ正月七日庚申の刻に、帝釈天の使いと称して青面金剛童子が現われたという。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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