興福寺 弁才天供・三重塔特別開扉
( べんざいてんく )
北円堂と同じく 興福寺では、最も古い建物が三重塔。
西国観音霊場九番札所で賑わう南円堂の南西側に、ひっそりと佇む。
全高19m 上層に比べ初層が大きく作られ安定感に満つ。
木割りが細かく軽やかで優美な線を醸し出す平安時代の様式を伝え
繊細で、いかにも女性の優しさがただよう美しい小塔。
相輪頂部の宝珠には「四雷電吼菩薩」の刻銘がある。
康治2年(1143)崇徳天皇后妃・皇嘉門院藤原聖子の御願 竣工。
治承4年(1180)平重衡の南都焼打により焼失、
鎌倉前期に再建、現在に至る。
- 興福寺パンフレットより
初重内陣は、中央の柱の4天柱に組まれた仏壇中心に方柱が立ち、
方柱と四天柱の間には、X形に縦板が施され
東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に弥勒如来
それぞれの千体仏が、見事な彩色で描かれている。
格天井にも極彩色の文様が描かれている。
これは興福寺三重塔独特のもの
明治 廃仏毀釈の嵐がおさまる頃、旧塔頭・世尊院の
弁才天とその諸尊が、三重塔に新たに祀られる。
弁才天は、元は河の女神。やがて学問・智慧・音楽を司る女神となり
中国では、美音天・妙音天などと訳される。
吉祥天と混同され、福徳・財宝の神ともされた。
室町中期より七福神の一に数えられ、俗に弁財天と書かれる。
八臂座像で15童子を眷属とする。
興福寺南円堂の建立の時は、
弘法大師空海が無事の完成を祈り 天川弁才天に参籠
そのとき宇賀弁才天を感得し、興福寺に窪弁才天として勧請。
この時、南都に七弁才天をも勧請し、
その際に供物に餅飯を整えて7ヶ日の布施を施したことから、
餅飯殿(もちいどの)町の名がおこった
以来、多聞天院日記にも見られるように、
学問遂行を祈って熱心な弁才天信仰が続いている。
7月7日午前9時より午后3時まで年1回の特別開扉がある。
猿沢池より南円堂への石段途中、地蔵尊を西奥に入る。
興福寺伽藍より低い位置にあるため 見過ごし易い。
最高気温30℃超の真夏日 暑くて 鹿たないよ~
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